癒しを追及するカウンセラー・鈴木孝信の「心が強くなる心理学」

鈴木孝信が贈る、欧米の最先端心理療法に基づいた、読むだけで心が強くなる心理学情報ブログ

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東日本大震災の心のケア その2

   

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石巻市の様子

2011年6月30日
石巻に来て始めての晴れ空。昨日中学校に向かったとき目にした「驚愕の風景」をゆっくりと目に焼き付けるために朝日がまぶしい中を、目に映るものをかみ締めながらゆっくりと歩き回ってみた。むし取られて引きちぎられたように傾いた電柱からぶら下がる電気線、木骨が激しくむき出しの民家、またフロントガラスが割れ、ボンネットやその他の外装がボコボコなったトラック。どれをとっても、僕の「日常」ではあり得なかったことだ。泥水の中のボウフラ、または海水性の小さな虫が発生しているのだろうか、たくさんの海鳥が海水を啄ばむ姿が、津波が起きたという現実をリアルに感じさせた。

昨日肩こりの話を伺った地域の方同伴で、仮設住宅に行くことになった。その方が仮設住宅関係の人と知り合いらしく、チラシを掲示させてもらうためだ。向かう途中の話では、肩こりがずいぶん楽になったとの話を聞いた。仮設住宅は200戸以上建っており「団地」のような雰囲気だった。仮設なので、1階建て、2DKが関の山といったところで、プレハブ小屋を思わせる仮設らしい仮設住宅だった。話によると、仮設住宅では東京のアパートやマンションのような現象が起きているとのことだった。隣同士誰が住んでいるのかも分からず、若い人は挨拶さえしない。

仮設住宅では、ヤクルトの販売員の方が警察と連携し『子供を見守り隊』チームを作り、ヤクルトを販売しながら治安維持に貢献していた。その方にもチラシを渡した。またたまたま出会わせた方から、小学5年生の子供が怖がりになっているという相談を受けた。地震後から夜間に敏感になり、物音にとても反応すると。また津波の遊びをするとのことで、直接津波を受けたわけではないことから、特に地震時の音がトラウマになっており、また繰り返しメディアに暴露されたせいで、津波の影響も受けていること等を伝え、電話番号と住所を交換した。

仮設住宅から帰る途中、別の小学校に立ち寄った。体育館を避難所として提供している傍ら、校庭や校舎では授業を行っている風景が興味をそそった。僕の「日常」の理解だとあり得ないことだからである。この地域ならでは、また状況ならではといった対処だと思える。体育館に入ると、いわゆる「避難所」の風景がそこに広がっていた。腰ほどのダンボールのパーテーションで理路整然と区画されており、即席であり一時的な、まさに「避難所」であった。立てば、隣やその隣、5個先のパーテーションの内側まで見えてしまうような状況で、どうプライバシーが守られようか。

拠点に戻るとカウンセリングルームを完成させた。地震と津波で割れた窓ガラスや、内装の汚れはダンボールや布で覆った。机と椅子を用意し、また畳をはぎ、ちょっと汚れたフローリングがアメリカンチックな雰囲気をかもし出した。内装には完璧を求められることでもなく、また見た目が素敵でないからといってそれ程支障があることでもない。問題は臭いだ。石巻市湊町は、水産加工業が盛んで、海産物をさばいたり、加工したり、また冷凍したりという工場がいくつもある。カウンセリングルームの窓の向こうも海産物加工の工場、入り口側もたらこの工場という立地だ。晴れると鼻を劈くような激しいアンモニア臭がする。カウンセリングルームは、マッサージにも以前に使ったとのことで、マッサージの香料の香りがほんのりするが、しかしながらドアを開けるとアンモニア臭が入り込んでくる。入り込んできた臭いは、密封された部屋から逃げていかず、自然にゆっくりと消えていくのを待つしかない。そして臭いと関連して、ハエが発生し、常に1~2匹は飛び交っている始末だ。きっと臭いの問題が町全体の問題なので、救援物資として簡易空気清浄機(香料を入れて臭いを出すタイプ)がたくさん送られてきたようで、それを2つ配置して眩暈がするようなシトラスの人工的香りを漂わせることにした。幸い日当たりが悪い部屋なので、気温はさほど問題ではなく、アンモニア臭よりは不快感の少ないシトラス臭で満たされた、簡易カウンセリングルームが完成した。

カウンセリングルームを出入りしていると、向かいの奥さんと顔をあわせた。昨日の電話の件は、入居者の入院が決まったということで一先ず解決した様子だった。

2011年7月1日
ハエに起こされる朝は、昨日同様晴れていた。布団の上に起き上がり、しばらく石巻に来てからの活動を思い返した。チラシを巻いて、そしてカウンセリングルームを作って。チラシには電話番号も残してある。が、一件も連絡はない。僕は石巻での自分の存在価値を疑い始めた。心のケアが必要とされていると言われている。一方でそれが表に出ない。それは仕方がないことなのか。だとしたら自分は何のためにここにいるのか。僕は思い立って、自分の足で動いて自分がこの地で役立つ方法を模索することにした。

拠点から海側の方向に徒歩10分程度の場所にある湊中学校。2日目に歩き回って様子を見たが、海に近づくに連れ建物の破損や、特有のにおいが強くなる。
小学校と隣接する中学校で、隣の小学校は避難所にさえなっていない程ダメージを受けている。その校庭には、廃車となった車が山積みにされているのが、チラリと伺えた。3・4階が避難所として解放され、現在では37人避難生活をされている校舎内へと足を運んだ。

避難所のスタッフ(北海道からのボランティア)に許可をもらい、非難されている方たちが寝泊りをしている各教室を回った。血圧の話をし、関連して睡眠の話をする。すると大抵の方が睡眠でいくらかの困難さを抱えていると話し始められる。そこから徐々に今の生活で気になる不安の話をする。ここまで話せる関係性ができると、津波や地震の話を自ら話される方もいる。もちろん、終始いわゆる「傾聴」と呼ばれる姿勢を保つ。必要に応じて現在の不安に焦点を当ててTFT療法を行う。

夕方、今朝方に立てた計画(自分で動く)の第2段を実行することにした。無謀な計画で取り扱ってもらえるか分からなかったが、動かないことには何もできない。
湊小学校は未だ200人弱の方が避難生活をされている避難所で、夜の不眠対策として心理相談ができないか、湊小を管理しているボランティアチームに相談しに赴いた。
チームの責任者は「突然は困る」という態度を見せながらも拒否はしなかった。それまでか、どういった方法で行うのかという提案までしてくれた。僕がイメージしていたのは、保健室など、どこか一室をおかりして、夜寝られないときに不安や緊張を取り除くためのTFT療法を一緒にやって不眠改善を援助する、というものだった。もちろん、僕の都合の良いようには行くはずもなく、部屋がないと。その代わりに体育館わきの「バス停」として機能している雨除けの下にパイプ椅子2つ置いてあるだけのスペースを提供してもらえた。そして「面白い試み」だと評価してくれるも「一人もこないかもよ」とやや冷ややかに思える笑みで、午後9時半(消灯)から午前2時までの活動許可与えてくれた。僕は「5人は来ないけど2・3人はきますよ」と負け惜しみではないけど、出所の分からない自信を彼女に伝えて準備に取り掛かった。本部を離れる僕の後ろから、その旨を告知するアナウンスが流れた。「午後9時半から2時まで、寝られない方の心理相談を体育館わきで行います」。アナウンスが流れている瞬間のシンと静まった空気の中、それを聞いた人はどう思っただろうか。

10時半ごろ、女性3人組みがなにやら話をしながらやってきた。「心の問題があるわけじゃないけど、部屋の中は暑いから…」と。その晩はとても暑いというわけではなかったが、網戸のついていない教室の窓を開けると虫が入るとのコトで、締め切った扇風機だけの環境だと話してくれた。雑談で関係性ができたのか、津波が襲ってきたときの話をはじめられた。津波で車がだめになってしまったこと。アナウンスがなくて逃げるのが遅れてしまったこと。大きな津波なんて来ないと過信していたこと、など。また今の生活が不便であり、今後のことも不安だと言うこと。

雨がポツリポツリと降り始め、その雨は強くなっていく、やがて激しくなった。これで今夜はもう誰も来ないだろう。そう思っていた矢先、4人組が傘を差して後者から歩いてくるのが見えた。どうやら3人は付き添いで、問題の1人は酔っ払っているらしい。4人に囲まれて話し始めると「こんなところで秘密を話せるわけないでしょ~!!」と酔ったその方が怒り始めた。場を察した付き添いの方たちは、席を外すと申し出、その1人を残して豪雨の闇に溶けていった。

深夜12時。豪雨の中の野外カウンセリングとでも呼べば良いのだろうか。お酒の影響で感情の変動が大きく、何度も泣かれ最後は手を握って「ありがとう」と感謝されたカウンセリング。ここまで特殊シチュエーションでのカウンセリングを経験したことがある人は、たぶん多くはないと思う。
深夜2時ごろにはやっと雨も収まり、報告書を書いて街灯1つない真っ暗で水浸しの道路を、拠点に向けてバイクを走らせた。「帰宅」途中、水浸しの道路の真ん中で男性が僕を見つめていた。午前2時だ。彼を通り過ぎた後バックミラーに移るものが何もなかったのは、たぶん疲れのせいだったのかもしれない。もちろん津波により、この地で多数の方が亡くなったのは事実なのだが。

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